阿賀町旅ものがたり

2016年1月27日

≪阿賀町概観≫
新潟県東蒲原郡阿賀町。東蒲原郡は、1886(明治19)年に福島県から新潟県に編入になり、約700年に渡る会津支配の関係が断ち切られた。阿賀町は、平成17年、津川町、鹿瀬町、上川村、三川村が合併し人口15,839人(平成15年)、面積は952.88㎢で県内市町村では村上市、上越市に次いで3番目の広さを持つ。昭和に入り津川町は昭和電工のまちとして栄えたが、反面昭和40年新潟水俣病が公表され阿賀野川は公害汚染の川となり関係者による法廷闘争が長く続いた。もちろん今はその影は微塵もなく清流阿賀野川として町を流れる。


阿賀町は、津川の「つがわ狐の嫁入り行列」を始め、かのせ温泉、津川温泉、角神温泉、きりん山温泉、御神楽温泉、七福温泉、三川温泉、中ノ沢渓谷、新三川温泉など里山を感じさせる個性的な温泉と、会津街道に関わる文化遺産や自然景観を求めて訪れる人も多い。
かのせ温泉では、経済産業省の再生可能エネルギー熱利用行動複合システムを導入、バイオマス熱(木質ペレット)のボイラー利用、温泉廃湯熱を利用した給湯・暖房、河川水冷熱利用の連坊運転と給湯熱源再利用など、年間17kl及び95.8tのCO2の削減を図っている。また、古民家から見つかった「蒸しかまど」を再現・使用し、品質管理では定評のある越後ファームのコメを、さらに絶妙な旨味と歯ごたえそして香り豊かなご飯として提供している。
つがわ狐の嫁入り行列は、麒麟山の狐火、津川城の守り神が狐、そして市内に今もある130か所に渡る屋敷稲荷などの事象をもとに平成2年に始まり、年々賑やかさを増し今では津川そして阿賀町を代表する祭りとなっている。

≪会津街道と阿賀町≫
  阿賀町は、会津と越後を結ぶ要所であり、それを結んでいるのが会津街道(会津では越後街道)であり、参勤交代に利用されたため地元では殿様街道とも呼ばれた。会津街道は、コメや塩を運ぶ重要な街道であり、石畳や一里塚、そして峠からの里の風景が昔をしのばせる。
  山形有朋は、戊辰戦争における津川の戦い等において会津街道の難所諏訪峠を2度往来し、また、諏訪峠には有朋が諏訪峠の剣を知ったという紀行文「東北遊日記」を記した吉田松陰の諏訪峠越えの時詠んだ漢詩「諏訪嶺、雪深く路険し、行歩甚だ悩む」の刻まれた石碑が佇む。

≪イザベラ・バードと阿賀町≫
  有朋のほぼ10年後の明治11年、イギリスの女性がこの諏訪峠を越えている。イギリスの旅行家であり紀行作家であるイザベラ・バードである。そのことは「日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)」記されており、峠越えの凄まじさとともに津川の町について「津川では、屋根は樹皮を細長く切ったもので葺いてあり、大きな石でおさえられている。しかし、通りに面して切妻壁を向けており、軒下はずうっと散歩道になっている。〜」と今も津川の町のシンボルともいえる“とんぼ(他地域では雁木とも)”などが興味の対象として描かれている。

≪阿賀町とこれからの旅物語≫
  阿賀町では、今、新たな旅の物語づくりに取り組んでいる。大名、商人、そして吉田松陰、山形有朋、互いに目的を別にした旅人が歩んだ会津街道そして街道から水路へと続いていった阿賀野川を舞台にした様々な軌跡を、『イザベラ・バードの「日本奥地紀行」足跡を辿る』をテーマに企画している。イザベラ・バードを案内人として昔と今の狭間を歩く阿賀野川ものがたりである。
  観光が目的地を強く意識した行為であるなら、旅は過程そのものの中に何か自身の目的を見出す行為であるといえるかもしれない。会津街道に一歩足を踏み入れると、自分は旅をしているのだ、という喜びが沸いてくる。朝もやの中に浮かび上がる吉田松陰が視認し感取した青龍が這うがごとく流れる阿賀野川を俯瞰し、苔むした石畳を踏みしめ峠を越えるとき、跡を振り返りつつ、そしてゆっくりと前を向いて歩んでいる自身の中に、何か大切なものを見出す、そんな自分一人の旅物語が出来上がるであろう。

(古賀 学)